オーナー濱本久允について

オーナー濱本久允

ハマモトガーデンズの開拓者 濱本久允は昭和22年に愛媛県で生まれました。1974年にグアムに移住後ガーデンの開拓にあたった歴史をご紹介いたします。

オーナー紹介

開拓者 濱本久允
生年月日 昭和22年(1947年)4月5日生まれ
本籍 愛媛県西予市三瓶町皆江2514
グアムへ移住 1974年7月

ハマモトガーデンズは1997年に開園以来、台風との戦いの歴史を繰り返してまいりました。絶望と希望を繰り返しながら、皆さまに支えられて今日があると大変感謝いたしております。

ご紹介するのは、当時雑誌や新聞に掲載されたものですが、ぜひご一読ください。

NOUVEAU(ヌーボ)2005年春夏号

ハマモトガーデンズ

(2005年5月2日の記事より)

生涯で1度は訪れたかった、外国という場所

タオルを首にかけたカジュアルな格好。気さくに声をかけるその姿からは想像もし得ないような壮絶な人生を彼は送ってきた。
高校の時、写真で見たヨーロッパの国に憧れを抱いた。戦後厳しい時代、農家を営む両親の背中を見て育ち、幼ながらに「同じ道は歩みたくない」と思い始めた頃。外国に行くことが簡単ではなかった時代のことだ。 大学卒業後、当時エリートコースと言われていた銀行へ就職が決まった。けれど「銀行に入ったらこのまま一生がおわってしまう。それよりも1度でいいから海外に行ってみたい」と進路を変えた。身を置いたのは当時日本にあった唯一の外資系ホテルヒルトンホテル。「銀行を蹴ってまで」と、親戚中からは白い眼で見られた。悶々とした下積みの後、系列会社の人事に引き抜かれ、海外ホテルのパンフレットを扱う業務へと移った。まさに旅行関係業の幕開けである。国際色豊かな職場で4年。 頭角を現す彼に仕事先の各国ホテル人事から次々と声がかかった。そしてミュンヘンオリンピック開催の年、ドイツに移る事を決心。
ところが翌年のオイルショックでビザの発行がスムーズにいかない。1年間ビザの発行を待っている間にグアムのヒルトンから「うちへ来ないか」と誘われた。悩ましい決断だったが「2年の契約が終わってからヨーロッパに行けばいい」と申し出を受けた。

人と人との関わりを経てグアムに身を沈める決心

2年後。当初は他国への転勤を考えていたが、その気持ちを惹き止めるのに充分な人脈がグアムで築かれていた。
それだけではない。2年間の間にホテルの見方も変わった。「もっと視野を広げたい。そして、ゆくゆくはグアムで何かをしたい。」そう思いホテルマンとしての区切りをつけた。グアムで永住権を得るための方法を考えていた時、ITCホテルに勤める知人からビザの収得を条件にホテルの面倒を見を頼まれた。有難い話だった。結局数年間をそのホテルで過ごし、その後トヨタレンタカーの海外1号店を役員の強い推薦で任された。更新時に条件の折り合いがつかずに彼が退社を決めた際には、本社から止めが入るほどに惚れ込まれていた。そして再び見の振りを考えていた時、ナウル共和国の大統領から「一緒にホテルの開発をしよう」と誘われた。世界一小さく世界一裕福な国。その国の大統領との友情はホテルマン時代に築き上げたものだった。融資、建設、開発。一連の流れを学んだ後は、ホテル経営者として残る道を選ばず「自分で開発の仕事がしたい」と事業に乗り出した。ちょうどバブルの時代だった。

頂点へのぼりつめ、そしてどん底へと落ちた

手掛ける事業は次々と成功。面白いほどにお金が入った。毎晩のお金の使い方が噂になるほど、夜の街を遊び歩いた。
欲しい物は何でも手に入れ、ある時、娘用の車を買った先で、「お前ほど次々と車を買える奴はいない。」とかつての同僚に言われた。「金じゃない、数字だよ-。」開発事業を始めたばかりの頃、「なぜ買い物にそんなに金をかけるのか。」という質問に、一晩で何億ものお金を使う世界一のギャンブラーが言った言葉である。当時は意味を理解していなかったが、その時自然と口に出た言葉だ。「金の価値ではない。ただの数字であり、その大きさなんだ。」金を金と思わなくなった人間の使う言葉だった。「俺は死んでしまった-」。金に翻弄され感謝の気持ちや喜び、希望もなくなっていた。「全部の金を捨ててもいいから、自分を取り戻したい。」そう強く願った。麻痺した感覚、横柄な態度は自然に触れればもとに戻るのではないか。
自然の中で生活が出来たらどんなに素晴らしいか。「金や物は人を幸せにしない。」身をもって体験した彼は現在の土地を購入し、たった一人で開拓をはじめた。フルーツワールド開業に向けた新たな一歩だった。
96年のオープンまでには5年の歳月がかかり、その間の収入は赤字続き。四方八方から借りつくした借金は大幅に増えていた。オープンから1年。翌月の収入がなければ先のない状況になった。
12月16日。グアム島が台風の大惨事に見舞われる前のことだ。

首を吊るための木さえなかった。今は、希望が残るから楽しい

全てが一夜にして消え去った。眠れぬ夜が続き、前進し続けた彼もついに息の根を止められた心地がした。
けれど人生のどん底で一筋の光が差し込むことになる。昔、政治関連で争ったはずのの相手が手を差し伸べてくれたのだ。「せいぜい3ヶ月」。援助は受けたものの再起より処分の方法を考えた。「どうせお終いになるのなら。」と資金をかき集め、念願だった広報誌に今までの人生を集約、発行した。すると、彼の文章に感動した人々が次から次へと援助を申し出た。絶望の底から再び人生がまわり始めた瞬間だbr>
「昔はあれもこれも欲しいと思っていた。今は希望が残るのがいい-」。酸いも甘いも知り尽くした人だからこその深みのある言葉。人生がつまった園内を歩きながら、「この木だけが冬になると葉を落とすんだ。きっと季節を必要としているんだろうね。」と楢の木を見上げる。そして、「だから私は、楢の木が好きなんだ。」とそう言って目を細めた横顔に、彼の人生を見た気がした。

致知 『この道に生きる』

(2007年9月の記事より)

多くの苦難を経てこそ見えてくる世界がある

グアムで大農園を経営する濱本氏は33年前、この地に移住した。
やがて実業家に転身し、ホテル建設や不動産業を次々に成功させ、巨額の富を手にするようになる。
頂点を極めた濱本氏が、なぜ農園経営を手掛けるようになったのだろうか。
そしてそこで見えてきた世界とは。

鈴木秀子先生とともに、その心の軌跡をたどりながら、人間の幸せについて語っていただく。

パシフィックデイリーニュース

(2005年5月2日の記事より)
ハマモトガーデンズ

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