「20ドル貸してほしい」
「なんで必要なのか」
「子供のミルクを買わなくてはいけない」
従業員の多くはポンペイという島から来ています。彼らは憎めない人の良さがあり、愛すべき若者たちです。開業以来働いている者もおり、一緒に働いていても、ニコニコとして冗談を言っては笑っています。その朗らかな笑顔と、20ドルもない生活のギャップが理解できず、何故彼達はお金がなくても平気でいられるのか考えました。農業視察でなんども行ったフィリピンを始めとする東南アジアの国々、物資の無かった日本の戦後時代を含め、お金や物の豊かさと幸せや生きがいとの関係にまで考えはおよびました。
農業を始めてから、私には一つの目標がありました。それは、現地の者やミクロネシアの島々から来ている若者達を使い、仕事を教えて優秀な人材を育てたいということでした。そのために色々なことを試みて来ました。まず、彼等の生活習慣を改めなくてはならないと思い、預金通帳を持ったことのない彼等に銀行口座を開いてあげ、少しづつでも預金することを勧めたり、私が働くことで、労働の楽しみやその意義を教えたり、働けば給料も上げることを約束したりと、彼等の今の生活から脱皮させ、少しでも幸せな生活をさせてあげたいと努力してきました。
しかし、いつまでたっても一向に改善される気配のない生活習慣に、期待と失望の繰り返しが続き、昨年は自信が無くなっていきました。
優れた能力を持っている彼等ですが、勤労意欲がない。返事は良いが実行されない。約束を守らない。いくら叱られても平気。こうした日々の繰り返しから、しまいには「返事はするが、人の言う事を聞いていない」と思うようにもなりました。そう考えると全て納得がいくのです。
「イエス」と言っても実行するとは限らず、勝手に思い込む自分の方が悪いのではないかという気にさえなってきました。 「あの朗らかな笑顔と20ドルもない生活」とのギャップを理解するにはどうするか、何だか今まで大きな間違いをしていた感じがしてきて、自分に納得のいく答えを見つけなくてはいけないと思うようになりました。そのためには、自分の育った環境も自分の固定観念を捨てる事から始めて、彼等が育った南国の自然環境を考えなくてはならないという結論に達しました。
彼等の原点である南国の自然、私のライフワークとして取り組んでいる南国の自然。改めて考えると、南国の自然と南国の人達の生活は見えて来ますが、そこに生きる彼等になりきることは出来ていなかったことに気が付きました。そこには想像も出来なかった羨ましい彼等の生き方があり、自分の考えの間違いに気付かされました。
彼等は一生生活に困らない遺産を引き継いでいるのではないか。豊かな南国の自然は、一年中食べる物を育み、絶える事のない心地好いそよ風は、服など脱ぎ捨てて体に感じるのが最高の楽しみ方。そよ風や小鳥の鳴き声のない、小さな換気口から風が送られる立派な住み家など必要ない。自然を守り自然と共に生きていけば、金など無くて自殺することもない。
自然の中は立派なスーパーマーケットであり、お金を持って食料を求めるか、マチェテ(鉈)を持ってジャングルに行くかの違いだけではないだろうか。日常必要な物はやしの木があれば何でも作れる。 人の作った物を得るために、一生懸命働き誰よりも高価な物を身につけ、それがステータスだと思っているつまらぬ世の中とは無関係。台風で住み家が飛ばされれば、また作れば良い。そんな生き方は、体一つで生きて来た江戸時代の人達に相通じるものがあるような気がする。
体だけ、命だけあればくよくよすることはないのかも知れない。地球上の楽園には、それを満喫できる人達が住んでおり、価値観の多様さと違いを感じます。